魔導学院――2――


――美しい黒髪だな


まず思ったのはそれだった。





クライド魔導学院、その教室西棟の裏庭は滅多に人が来ない。
中庭に比べるべくもないほど狭いからだ。独りになるのは最適な場所だが、自慢話の大好きな魔導貴族の血統を持つ多くの学院生は、人の大勢いる中庭でお喋りをすることを好んだ。
だが魔導貴族の血を受け継いでいるとはいえ、ハーフエルフであり人の苦手なサミアは中庭よりも裏庭の方が何倍も落ち着くのだった。

その裏庭へ後から来た人間は、サミアの姿を見て驚いたように一端入口で足を止めた。
先客がいるなんて予想もしていなかったというように。
しかしその顔はすぐに微笑んで、足はサミアの方へ再び踏み出した。

(私を見て微笑むなんて、この学院で珍しいこともあるものね)

サミアはその人間を頭から足先まで見ていたが、それを気にするでもなくその人間は微笑みながら近づいてきた。
柔らかな雰囲気を持つ男だった。いるだけで空気が暖かくなりそうな、そんな印象をサミアは持った。
衣服は上等な絹のようであるので魔導貴族に間違いないだろう。太腿の中程まである濃い青色の上衣を皮のベルトで留め、下衣は黒、膝下まである黒のブーツに裾を入れていた。
一般的な貴族男性の普段着だ。
男はサミアの所まで来ると空いているもう一つの木の椅子に座り、手に持っていた数冊の書物を机の上に置いた。

「それって紅水晶?綺麗だね。初めて見たよ」

サミアが両手で包み込んでいる桃色の石を見て、男は興味深そうに覗き込んでいた。

「ええっと・・・私邪魔ですよね?今行きますから」

学院でサミアのことを快く迎えてくれるものはいない。七年前はそうだったので、この優しそうな青年もおそらく心の中では邪魔だと思っているに違いないと思って、サミアは立ち去ろうと椅子を立った。
考え事も一段落したことだし、裏庭にもう用はないのだ。
だが返ってきたのは予想外の返事だった。

「なんで?邪魔なことはないよ。むしろ君が先客なんだから君が僕を邪魔だと思うなら、去るのは僕の方だと思うけど」

振り返ると、男はさも楽しそうににこにこと笑っている。
この男には自分の少しだけ突き出た耳が見えていないのだろうか――サミアが目を見開いて立ったままでいると、男は空になった隣の椅子を手で軽く叩いた。座るようにと示しているのだろう。
なんとなくそこで突っぱねるのも悪い気がして、サミアはそれに大人しく従った。

「珍しいね」
「えっ・・・ああ」

『ハーフエルフがいるなん』て、という言葉が後に続くのだなとサミアは解釈した。

「たくさん学院生がいるというのに他にいないですからね」
「そうだよね、裏庭ってすごく落ち着くのに」

男が思っていたのは違っていたようだった。『裏庭に人がいるなんて』が正解だったのだ。
自分を見れば『ハーフエルフだ』と必ず人間は言うので、意外な答えに驚いて伏せていた顔を上げた。
男は相変わらず優しげな笑顔を浮かべている。それを間近で見て、サミアは思わず顔が赤くなった。

「ここに他の人がいるの見たのは初めてだよ。僕よくここに来るんだけど・・・」
「あ、私今日来たばかりなんです」
「入学したばかりなんだ?それで早速ここにいるなんて、君も目の付け所がいいね」

目の付け所がいいというか、知ってたんです――とは言わなかった。
何も自分が一度学院を辞めて、再び入ったというのは言わなくとも良いことだった。

「そう入学したばかりで・・・あ!!」

サミアは重要なことを思い出した。ヴェリーネと話をしてからすっかり忘れてしまっていたのだが、そもそもあの廊下を歩いていたのは担当の教師のもとへ行くためだったからということを。
まだ手に持っていた紅水晶を急いで腰の袋の中へ入れて、立ち上がった。

「どうしたの?」
「私先生のところへ行かなきゃいけないこと忘れてたんです。さようなら!」

男に頭を下げて、サミアは西棟廊下へ繋がる、木に囲まれた道へ駆け出した。

「そっか、がんばってね。そうだ名前・・・」

男がそう言ったのが背に聞こえたが、サミアはそれには答えなかった。

(また独りになれる場所、探さなきゃ・・・)

あの男はおそらく悪い人ではない。そう思ってはいたが、だからといって『アーク』以外の人間と親しくなれるとは思っていなかった。
そのうち自分の過去の話や出生があの男の耳にも入るだろう。サミアが再び入学してきたことにより、「赤髪のハーフエルフ」の噂話が学院生の間で飛び交うのは目に見えている。
それを聞けば、優しかったあの男も態度が変わるに違いない。日の光のように暖かな笑顔も、氷のように冷たい嘲笑に変わるに違いない。
そう思うと少し寂しい気がしたが、しかしそれは今までのことを考えたら当然のこと。
だから平気だ、とサミアは心の中に浮かんでくる男の笑顔を頭を振って吹き飛ばした。







教室で待っていた教師には少しだけ注意をされたが、遅れたことは特に気にはしていないようだった。
この教師に担当してもらう五人の他の学院生たちは、サミアが入ってきた時に不満気な表情を浮かべたが、教師の手前口には出さなかった。

「それじゃ全員揃ったことだから、これからいくつか説明をするぞ。その前に俺の名前はバル、だ。君らの担当となる。よろしく」

二十代後半から三十代前半ぐらいだろうと思われる教師は、とても快活そうな人物であった。
魔導学院の教師であるのだから魔導士であろうが、それを知らぬ人が見たら重い剣を持つ戦士だと思うかもしれない。それほど体格の良い男だ。
濃い茶色の髪を肩辺りまで伸ばし、後ろで一つで結んでいる。額には小さな緑色の宝石のついた額冠のような飾りを着けていた。学院の教師は皆これを着けている。

サミアはもう既に知っている学院の規則、授業などについての説明がされていった。忘れていることもあるかもしれないので、教師の言うことを確認のようにして聞いていた。教師は時々笑い話を取り入れて学院生を笑わせながら、話を進めている。

「あー、まあこんな所だな。他に判らないことがあったら他の先生に聞いてくれ。俺まだ新米教師だから判らないことが多いんだ」

学院生がどっと笑う。サミアも笑った。悪い教師ではなさそうだ――教師によってはエルフまたはハーフエルフを嫌悪する者も少なくないので、それを全く感じさせないバルという教師に当たって運がいいと思った。

「それじゃ、ちゃんとした授業は明日からだから今日は終了だ。帰るのもよし、学院を見回るのもよし・・・腹が減ったらこの西棟の一階に食堂があるからそこに行ってみてもいいぞ。ってそれは俺か」

豪快に笑うバルに吊られて、またサミアも他の学院生も笑った。
終了、ということなのでサミアは早速独りになれるような場所がないか探そうと廊下へ出ようとした。
が、教師に呼び止められた。先程遅れてきたことを改めて注意されるのだろう、と「ざまあみろ」という視線をサミアに送りながら他の学院生たちは残らず去っていった。
サミアも内心、叱られるのではないかと心中穏やかではない。
だがバルは、説明をしている時と変わらず笑顔を浮かべながら、サミアに近くに来るよう手招きした。

「お前相変わらず小さいなあ。元気だったか?」
「へ?」

教師に対する返事ではなかった、とサミアは後悔した。
だが当のバルは全く気にしていない様子でサミアの頭をくしゃくしゃと撫でた。

「元気だったかって・・・私のこと知ってらっしゃるんですか?」
「またまた、惚けるなよ」

本当に誰だか判らなかった。記憶の糸を手繰り寄せてみるが、このような男が見たことがない。図体がでかい魔導士など、知り合っていればそうも忘れそうもないものなのだが。
髪を撫でつけながらサミアが戸惑っている様子を見て、それが冗談ではなさそうだと気付いたバルも片眉を下げて困った顔をした。

「まさか、マスターに話聞いてなかったとか?」
「え・・・マスターって」
「マスターはマスターだよ。ブロスリアンドの」
「何も聞いてません。マスターとお知り合いなんですか?」

ブロスリアンドのマスター、といったらもちろん『ブロスリアンド・アーク』の美しき女マスターのことであろう。
確かにマスターは学院の教師のことについて何も言ってなかったと、サミアはマスターと学院の再入学について話をしていた時のことを思い出しながらバルに答えた。

「かーっ、あいつも人が悪いなあ。それならしょうがない。本当に俺のこと判らないか?」
「すみません・・・判りません」

サミアは項垂れて謝った。しかしこの教師は再びサミアの頭をくしゃくしゃに撫でると、にっと笑って言った。

「お前学院を一端辞めたろ?その時にブロスリアンドに向かっただろう」
「はい。そうですけど」
「その時野盗に襲われたの覚えてるよな」
「もちろんですけど・・・なんでそんなこと知ってるんですか?」

何故そのようなことを聞くのか判らずに、サミアは首を捻った。

「だからな、俺がその時お前を助けた奴だよ」
「ええっ!」

考えてもいなかった答えだった。
確かにあの時野盗に襲われ、一人の男に助けてもらったことがあった。
その男に「ブロスリアンドに帰りたい」と言ったら連れて行ってくれ、父がいる筈だった森の奥まで一緒に行ってくれた。生憎父はおらず、サミアが五歳まで育った小さな木の家は朽ち果ててしまっていたが・・・
荒れた家を見て泣くサミアを、男は『アーク』へサミアを預けてどこかへ去っていった。
その命の恩人といえる男が目の前にいるバルだと、サミアは思いもしなかった。

「そんなに判らなかったか?」
「判らないですよっ!だって野盗を倒した時に確か魔法使ってなかったじゃないですか」
「あぁ、そうか。野盗ぐらい腕一本で十分だからな。それに詠唱している間は無防備になるから、一人で数人倒す時はよっぽど殴ったほうが安全だ」

確かにこの男の体つきであれば数人相手に武器は持たずともやりのけるだろう。
魔導士としてのバルを知らなかったために、サミアそこに思い至らなかった。
もう五年前の記憶となるが、野盗に急に飛び掛られて地面に倒されもう駄目だと思って目を瞑った瞬間に、何もしていないのに何かがぶつかり合う鈍い音が聞こえたのをしっかりと覚えている。
ぶつかり合う音は、正しくは一人の男が野盗を殴る音であった。
数人いた野盗をあっという間に倒し、涙目で震えるサミアを優しく撫でた手は、先程撫でられた手と同じだった。

「・・・あの時は本当にありがとうございました」
「いやいや、いいんだよ。それより、父さん見つかったか?」
「いえ・・・やはりもう・・・・・いないのかもしれません」
「そっか・・・」

サミアは父のことを聞かれて深く項垂れた。『アーク』に来てからというもの、サミアは表の仕事をする一方で父を探していたのだが、全くといっていいほど手がかりは見つからなかった。

「まあ、まだ時間はあるんだしゆっくり探せばいいだろう。もしかしたら『結界森』に戻ってるのかもしれないしな」
「はい」

『結界森』にいること、それが唯一の望みだった。エルフ以外は人間も、ハーフエルフも受け付けないエルフの故郷。そこはエルフにとって最も安全な場所。
そこにもし父がいるのなら、いくら探しても無駄なことである。

暗い話になってしまったので、サミアは話題を変えようと気になっていたことを口に出した。

「先生、私を『アーク』に連れて行ったってことは『アーク』の人・・・ですか?」

見上げると、気のいい教師はサミアが初めて出会った時のように優しく笑って頷いた。

「サミアが学院で安心して学べるようにってあいつ・・・マスターが俺に頼んできたんだ。ハーフエルフに嫌悪する教師も多いから、そんなのに当たったらサミアはまともに魔導が学べないだろうからな。本来教師は学院生を選べないんだが、まあ・・・ちょっとな」

人差し指を口の前に当てて、意地悪くバルは笑う。おそらくこの教師はサミアの担当になるよう何かしらの裏操作をしたのだろう。

「お前、可愛がられてるな」
「はい・・・嬉しいです」

自分の知らないところで、マスターがそんなに気を回しておいてくれたことに心から感謝した。
誰も味方のいない学院、そう思っていたので、一人だけでも自分を知る人がいるとなると心強い。それが担当の教師であるのだからより一層である。

「これからよろしくお願いします」
「こっちこそな。何しろまだ新米教師だからお手柔らかに願うぜ」

先程、他の学院生がいる時に言ったことを再び言ってバルは笑った。サミアも吊られて笑う。

「さて・・・それじゃ、俺はそろそろ行かないと。サミアはこれからどうするんだ?」
「これから探したいものがあるんで、院内をウロウロしようかなと思ってます」
「ははは、ウロウロか。それじゃ、また明日な」
「はい、さようなら」



廊下へ一緒に出て途中で別れると、サミアはとりあえずバルに言った通りに院内を歩き始めた。
探したいもの、とはもちろん裏庭のような「独りになれる場所」であった。だがこの人の多い学院内では早々見つかる筈はないことはもちろん承知していた。
まず、教室東棟にもある裏庭に行ってみようかと考え、サミアが先程までいた西棟とは中庭を挟んで正反対の位置にある東棟へ足を運んだ。
だが、ある筈だった裏庭は無かった。正確に言えば「庭」ではなくなっていたのだ。
サミアが学院を五年前に一端辞めた後、そこはどうやら薬草を育てる畑として利用されることとなったらしい。
裏庭一面に様々な種類の薬草が植えられ、人が入り込んで考え事をするには向かない場所となっていた。

他に独りになれそうな場所は、サミアには心当たりがなかった。図書館は静かだが独りになれるわけではないし、教室棟の屋上は大抵人がいる。
やはり、人が来ないところといえば西棟裏庭しか思い当たらなかった。

「まだ・・・あの人いるかしら」

母親や『アーク』の人間以外には初めてサミアに笑顔を向けてくれた人間に先程会った裏庭へ、もう一度行ってみることにした。
何も、あの男も常に裏庭にいるわけではないだろうから、誰もいない時なら裏庭に行っても大丈夫だろうと考え直したのである。
かくして、男も、その他にも誰もいなかった。
周囲を樹木に囲まれた裏庭は静かだった。一羽の白い小鳥が何かを拾って食べているのか地面にいたが、突然現れたサミアに驚いたのか、せわしなく羽ばたいて飛び去ってしまった。
男がいなかったことにほっとし、それでいて少しだけ残念な気持ちがした。
もしかしたら仲良くなれるかもしれない、と心の何処かで願う自分がいるからだろう。それは無理だ、ともう一人の自分が言い聞かせてもいるのだが。

日は既に傾いて裏庭を僅かしか照らさなくなっている。それでも十分今の季節には温かい。
木の椅子に腰掛け、机に頬を重ねて目を閉じた。
樹木の香りがサミアの鼻を擽る。それは森育ちのサミアにとっては懐かしい香り。
心地良い風が吹く中、サミアは今日の出来事を思い返していた。




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