― はじめまして ―



その言葉は、僕にとって憂鬱なものだった。
今まで何度言っただろう。
新しい学校、新しい教室、新しいクラスメイト―――全てが新しい環境となったら、まずその言葉から始まった。

『はじめまして』

見知らぬ顔が僕の顔を舐め回すようにして見る。
隣の席の子に耳打ちしている姿も何度も見た。
教室は変わる度に異なる匂いがした。
でも僕がその匂いに慣れた頃にまた別の土地へ行くことになることが何度続いただろうか。





部屋の中にはあまり無駄なものがなかった。
親が転勤族で、引越す度にたくさんの荷物を纏めるのが面倒なので、あまり物を増やさないようにしていたためだ。
だからまた今回引越す準備をするのにも、大して手間がかかることはなさそうだった。

押入れの奥から何が入っているのか覚えていないダンボールの箱を発見した。
おそらく、別に普段は無くても問題はないが捨てられない物が入っている。
その物をいつダンボール箱に入れたのかは覚えていない。
前回、前々回、それよりもっと以前か・・・僕は全く覚えていなかった。

しっかりとガムテープで塞がれているダンボール箱をわざわざ開けるのは、引越す準備をしている身としては気が引けることであった。
しかし、どうしてもダンボール箱の中身が気になって仕方が無いので、意を決して開けてみた。

中身は小学校、中学校時代の卒業アルバムや、図工の時間に描いた絵や工作、当時気に入っていた玩具などが無造作に詰め込まれていた。
これを整理したのは確か高校一年の時の引越しの時だったか――中から小学校の卒業アルバムを取り出して頁を捲った。
前半はクラスごとにクラスメイトの顔写真が並べられていた。クラスの集合写真もあった。
僕は自分の所属していたクラスの頁を見た。久しぶりに見た小学生の僕の顔は酷く緊張した面持ちだった。
この学校には卒業の半年前に転入した。
まだ学校に馴染んでいない頃にこの写真を撮ったので、自然と緊張した表情となってしまっていたようだ。
苦笑しながら僕はアルバムを閉じた。
僕の写真はこの頁以外にはない。卒業半年前に転入してきたからだ。
アルバムの編集には時間がかかるので、早めにその作業は始まる。
だからアルバムに使われた写真は、僕の転入以前に撮られた写真ばかりだった。
半年とはいえこの学校に通っていたのに、僕はアルバムには顔写真と集合写真にしか存在していない。
それがとても寂しくて悲しくて、小学校を卒業してから暫くはこのアルバムを見ることができなかった。
他の頁を捲れば、僕の知らない行事ではしゃいでいる同学年の子たち――僕にはそれを見るのが辛かった。

中学も高校も似たようなものだった。
常にあった疎外感。
一応友達はできても、僕が転入する以前の話には参加できないもどかしさ。
自然に他人と距離を置くようになって、特に親しい友人もできなかった。

『どうせ仲良くなっても、また別れがくる。親しくなったら別れが辛くなるから、このままでいい』

そんな風に思って過ごした数年間は、今考えるともっと辛いものではないかと自嘲してしまう。
だがその原因は自分であることは十分承知している。






僕は変わろうと思った。変わりたいと思った。

「ねえ、それ何?」

僕が小学校の卒業アルバムを手にして考え事をしているのを不思議に思ったのか、それまで僕に背を向けて引越しの手伝いをしてくれていた彼女が聞いた。
高校で同じクラスだった人で、いつも独りでいようとする僕を、お節介だと思うほどに構ってきた人だった。
屈託なく笑う彼女に僕が惹かれるのには時間がかからなかった。
何故人と距離を置くのかについて話した時、彼女は僕を叱った。
『ただの臆病者』だと。
自分の都合のいいように理由をつけて、自分が傷つかないようにしている、と。

「友達がいなくても別に関係ないと本当に思っているのならいいの。でも私にはあなたがそう思っているようには見えない」

何も言い返せずに、その時僕は黙ったままだった。

『はじめまして』は同時に『さようなら』を示すというのが僕の中に数学の公式のように設定されていた。
他人との間に壁を作り、僕は自分の殻に閉じこもることによって、その公式を具現していたのだ。
だから転校した後に連絡を取り合っている友達はいなかった。
友達、というよりは知り合い程度の関係かもしれない。
相手も僕のことなど気にかけていないだろう。その程度の関係しか築いてこなかった。

「もったいないと思わない?今までそれだけたくさんの人と巡り合うチャンスがあったのに、あなたは動こうとしなかった。もったいないと思うな。私は生まれてからずっとこの土地に住んでいるから、ここ以外のところに知ってる人なんていないもん。ここ以外に知ってる土地もほとんどないし・・・」

そういう考え方があったのか、と僕は頭を殴られたかのようにショックを受けた。
僕は自分が可愛かったのだ。
こんな親の都合で何度も転校させられる僕はなんて可哀想なんだ、とそう思うことで満足していた気がする。
我ながら軟弱な奴だ、と思う。

そんな僕なのに、どうしてそこまで気にかけるのかと彼女に聞いたことがあった。
彼女は笑いながら『それが私の性分だから』と言った。
僕が寂しそうに見えたらしい。
あまり深くは考えずにただそれだけの理由だったらしく、彼女は照れたように頭を掻いた。












「なんでもないよ。・・・僕にも君ぐらいの単純さが欲しいなあ」
「いきなりなにそれっ!わけわかんない。単純って、私が馬鹿ってこと?」
「そういう意味じゃないよ」

頬を膨らませている彼女をなだめながら卒業アルバムを元あったダンボール箱の中に入れ直し、再びガムテープで封をする。
今回の引越し準備はこれまでのものとは違い、非常に心浮き立つような思いだった。
僕が自分から決めたことだから、だ。
今までの引越しは親の仕事の都合であり、僕には選択の余地はなかった。
僕は今春から自分で決めた大学へ行く。
場所が少し遠いので、一人暮しをすることになったのだ。

何度目かの、住む環境の変化を迎えることになる。
不安も大きいが期待も同じぐらい大きい。
どんな人達と知り合うだろうか――今まですることのなかったことの期待が僕の心に渦巻く。

「準備できた?荷物は一階に下ろしておきなさい」

母親に言われて、二階の僕の部屋から一階の空き部屋に荷物を移した。
一つだけ、最後に余ったダンボール箱があった。
僕は下に運ぶかどうか悩んだ。
だが結局そのダンボール箱は元あった押入れの奥へしまった。
昔の自分のようにはなるまい、と心に誓いながら。

次に言う時は別れの言葉を一緒に考えずに言えると思う。

『はじめまして』

他人からみたら他愛のないただの挨拶としか思われないだろう。
でも僕には特別な意味がある。






取り敢えずの引越し準備が終わり、僕は自分の部屋に戻って窓の外を見た。
既に季節は春。
開いた窓から入ってくる風はまだ少し冷たいが、冬のように凍えるような冷たさでなく、心地良いものだ。
僕は春の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
彼女がその横で微笑んでいた。
ひんやりとした風に、今までの僕を攫っていってもらった気がした。






― END ―


<2003/01/29>